三井環法律事務所
“悪徳検事”までの経緯
告発
私憤、そして義憤
私が、調査活動費、裏金作りを告発しようと思ったのは、私憤であったことを最初に明らかにしておきます。
加納駿亮という私の先輩にあたる、検事がいました。
仕事ができると、評価が高い人でした。
戦後最大の経済事件、イトマン事件を手がけた人でもありました。
私が大阪高検刑事部の時、京都で医学部を舞台にした贈収賄の疑惑が発覚。捜査を直接担当したのは京都地検ですが、指揮したのは、大阪高等検察庁。
私は高松地検で同種の事件の独自捜査していた経験から、どうも裏付け捜査が十分ではありません。この程度の内偵、捜査状況で逮捕するのは早いと進言しました。
しかし、大阪高検は逮捕にGOサインを出していました。関わった大学講師を逮捕、教授まで捜査する予定でした。結局は、教授を逮捕できず、講師も釈放され、起訴猶予となり事件は霧散してしまいました。
これは、検察にとって大きな失態です。
私は内偵不足など捜査の問題点を指摘しました。しかし、この時、検察は失敗に目をつぶり、加納氏はじめ関係者を不問にして、栄転させたのです。
検事への道でも触れましたが、なぜ、検事が机の上ばかりで仕事をしたがるかというと、独自捜査で失敗すると責任をとらなければならない。だから、無難な仕事をするために、独自捜査は極力しないのです。
私は、独自捜査を他の検事よりはずっとやってきました。
いつも何かあれば、責任をとる覚悟で、やってきました。
正義を貫く検事として、それが当たり前のことなのです。
加納氏は正論を唱える私を
「三井はオレに恥をかかせた」
と逆恨み、人事権者として私を冷遇しはじめたのでした。そこで、私は当時の荒川検事長に「関西におれんので東に行かせてくれ」といって名古屋高検総務部長になりました。
私は平成11年7月、大阪高検公安部長となりました。ここでも、加納氏の横やりで給料や待遇のポストを示すランクが本来、2号であるのに3号に据え置かれた。
大阪高検公安部長は2号と決まっていた。3号という人は近年いませんでした。給料が安いことを問題にしているのではなく、プライドがいたく傷つけられた。
検察官は独立して良心に従い、事件を処理して、正義を貫く。加納氏のやっていることは検事としてあるまじき行為です。
「私にも覚悟がある」
私は加納氏が調査活動費を裏金に流用していることで、告発してやろうと考えた。
加納氏は平成7年から8年に高知地検検事正でした。私も昭和63年から平成3年まで高知地検次席でした。
その人脈で加納氏がいかに調査活動費で豪遊していたか手に取るように知っていました。ゴルフが好きで、休日には調査活動費をゴルフ代に充て、料亭でもよく飲食をしていました。
そんな裏事情を私はいくつかの雑誌に告発をはじめました。先に申しました、則定氏の女性スキャンダルでは雑誌報道をきっかけに新聞、テレビにと広がり、辞任に追い込まれました。
噂の真相で最初に記事が出たのは、平成13年1月のことでした。
今は週刊文春に在籍されている、西岡記者が書いてくれました。その後も、週刊朝日の落合博実記者や山口一臣記者が何度も、記事を書いてくれた。
しかし、私の告発は興味を示すマスコミはあれども、まったく電波にのって報道されることはありませんでした。大手のマスコミは情けないかな、検察から情報が取れなくなるのが、怖いと記事にしないのです。
私は、次の一手として、加納氏を刑事告発することにしました。私は高松地検次席検事時代から親しいかった、川上道大社長に話をしました。
川上社長は地元で、四国タイムズというローカル新聞を発行しています。
毎号、大きな題字で「強烈なる正義」と書かれており、私と非常のウマがあった。川上社長は私が現職検事であることを考慮して、自らが告発人になってくれました。
告発状は私が下書きをしました。容疑は、調査活動費の中から現金を詐取したり、架空の領収書や公文書を偽造したという内容です。料亭の名前や罪名、罪状まで詳細に記述して告発しました。
事件を捜査するのは高知地検検事正当時の分は高松高検、神戸地検検事正当時の分は大阪高検でした。捜査は簡単です。私なら、バーンとドアを蹴って事務局長室を急襲。裏帳簿をがっちりと抱えて、虚偽の伝票や支出伺い書を押収。
事務局長らを取り調べると、すぐにコトは明らかになる。こんなもの、調査活動費のことがわかっている検事なら、朝飯前で捜査は終了してしまいします。
しかし、検察は動きませんでした。ついに平成13年11月に私の告発に対して、嫌疑なしとして、検察は不起訴と決定を下しました。その直後告発されていた、加納氏は福岡高等検察庁検事長というポストに栄転したのです。 福岡高検検事長は全国に8つある高等検察庁の一つで検事長は天皇陛下から認証が必要です。
検察は真っ黒を真っ白にかえた。さらに驚くべきことにケモノ道を使ったのである。ケモノ道とは原田検事総長らが内閣に裏金作りが公表されると検察が崩壊すると泣きを入れ、加納氏の検事長人事の承認を得たことをいいます。これ以後検察は内閣主導の国策捜査しかできなくなりました。辻本議員の逮捕・起訴がいい例です。私はその2点において加納氏のことはどうでもよくなり義憤による現職のままでの実名告発の時期を探るようになりました。
これだけで、犯人隠匿罪であり、検察の職務を放棄したことになります。おまけに、真っ黒の人物を天皇陛下を騙して認証させたのです。
実は、この告発で私は、すべてが終わると思っていました。
検察は加納氏を起訴して、調査活動費の実態を公表。国民に謝罪して、幹部は辞職。使った金は返還する。予算も返上する。そうなると信じて疑いませんでした。
一時的には権威は失墜するも、頑張ればいずれ
「さすが検察だ」
と再評価されるようになる。ベストの選択肢であり、その方法が選択されると思っていました。しかし、私の期待通りにはなりませんでした。
それまで、加納氏への私憤で告発していましたが、国民を欺く検察こそ許すまじと、私は私憤を義憤にとかえました。
「とことんまで、やったる」
私はそんな気持ちになりました。
実名告発への決意
平成13年11月加納氏を不起訴とした検察。
私はどうすべきか、悩みました。
これまでは、川上氏は私の化身となって頑張ってくれた。しかし、これ以上川上氏が頑張っても、調査活動費の裏金問題は検察庁と法務省が隠蔽してしまうという危惧があった。実際に、検察庁の調査活動費予算は、年々縮小され、そのうち忘れ去られるような筋書きを考えているように思えました。
平成13年夏ごろ、朝日新聞の落合博実記者(当時・現フリージャーナリスト)より、何度も実名告発をと説得されていました。一度は、その時に実名での告発を決意しました。というのは、私は調査活動費マニュアルという法務省が調査活動費をどう使えばいいのかを記した資料は持っていた。だが、裏帳簿や使われた伝票など、資料は持っていなかった。自分が現職で生き証人として実名告発するのが最も説得力ある手段でした。
しかし、検察官として29年間働いてきました。将来設計として、検察官を辞めて弁護士事務所を開業しようとしていた。娘は司法試験をめざし。大学進学目前の息子もいます。正直言いますと、恥ずかしいかな退職金が惜しかった。
私に仕えてくれた部下たちや、尊敬できる先輩を裏切るような気もしました。
検察官という職務上、調査活動費という税金の不正支出は、黙って見過ごせません。検察官のとしての自分の存在価値を失います。
だが、法的に見ればその告発は公務員の守秘義務違反に問われるのではないかという、観点もあった。
また、落合氏に説得を受けているときに、加納氏が辞職するらしいとの情報もあり、ためらいがありました。
昨今、内部告発という言葉が桧舞台にのぼりはじめました。私の場合も、それにあたるでしょう。内部告発という言葉は聞こえはいいが、実際のところ、告発にはさまざまな困難と葛藤がありました。なかなか、実名告発に踏ん切りをつけることができませんでした。西宮冷蔵の水谷洋一社長が雪印食品の偽装牛肉事件を内部告発されましたが、本当に勇気が必要なものだと、実感しました。
私と川上氏は相談の上、高松高等検察審査会に不起訴処分の不服を平成14年4月3日付け申し立てました。
そして、川上氏に証人申請書を提出してもらいました。証人は、私、三井環です。この申請書が明らかになって、誰もが調査活動費の裏金問題を告発しているのが私であることを知ることとなりました。取材が殺到しました。私は、公安部長室の電話で取材要請に答え、その部屋でマスコミ関係者と会ったこともありました。何か吹っ切れたように、堂々としていました。
やるからには、かならず相手を倒して見せる。
民主党の菅直人代表とに、衆議院法務委員会に証人として呼んでもらえるように、話をつけていました。
タイムスケジュールは、まずゴールデンウイーク明けに朝日新聞の一面で調査活動費が裏金であると、実名で告発。社会面では、私への一問一答を掲載。テレビ朝日系列のザ・スクープの単独インタビューを事前に収録。朝日新聞の告発と同じタイミングで、放映。その後、断続的に複数のテレビの収録に応じてインタビューを放映。それまで、匿名で書いてくれた"同志"ともいえる、週刊朝日・週刊文春・噂の真相は実名で、調査活動費の裏側を赤裸々に書いてもらう。最後に、現職検事のまま、法務委員会で包み隠さず真実を述べて、検察官のバッジを外す。そんな計画でした。
4月17日は、すべてがはっきりと決まりました。翌週からは、テレビのインタビュー収録が始まります。トップバッターがザ・スクープでした。キャスターの鳥越俊太郎氏が大阪に来られ、収録することになりました。4月22日午後、大阪市北区のホテルの一室が指定されました。
しかし、インタビューは幻に終わりました。
4月22日朝、私は大阪地検特捜部に任意同行を求められたのでした。
