三井環法律事務所
“悪徳検事”までの経緯
逮捕
突然の逮捕
平成14年4月22日、私はいつも通り朝7時前に西宮市内のマンションの自宅で目が覚めた。出勤のために、身づくろいをして、外にでた。そこには、黒塗りの車が止まり、二人の大阪地検の検察事務官が乗っていた。一人は、私の部下として使えたことがある事務官だった。
「部長、うかがいたいことがあるので」
そう、かつての部下は言った。
「これは逮捕されるな」
そう、瞬間的に思った。
黒塗りの車に乗せられ、大阪地検に向かう途中、逮捕容疑を考えた。
「公務員の守秘義務違反か、それとも、別のことか」
思い当たるふしがなかった。
車の中は、重苦しい雰囲気だった。そして、かつての部下が再度、口を開きました。
「部長、へた打ちましたな」
間もなくして、車は大阪地検に滑り込みました。
いつもは、勤務している24階の公安部長室に向かうが、この日は特捜部に連れて行かれた。待っていたのは、私より13歳も年下の水沼検事でした。
水沼検事は、私にいきなり逮捕状を示しました。
口封じのために逮捕されたと、私は思い知らされました。
そして、罪名を知ったのですが、皆さん、この罪名を読んで私がどんなことをしたのか、わかりますか。
電磁的公正証書原本不実記載
不実記録電磁的公正証書原本供与
詐欺
公務員職権乱用
中身を詳述しますと、私は神戸市内にマンションを競売で落札していました。しかし、相手が退去しないためなかなか入居できないでいた。私はそのマンションが利便性に優れていたので、住まいと事務所を兼用という形にして、将来は弁護士事務所を開業しようと考えていました。相手が退去した後には、住むために自分で趣味の日曜大工の腕を生かして、壁紙や障子の張替えをしていました。しかし、検察の容疑は、住んでいないところに住民票を移転させ、登録免許税という税金を約47万円分、軽減処置を受けたとしているのです。この47万円は"詐欺"にあたり、"電磁的公正証書原本不実記載"、"不実記録電磁的公正証書原本供与"は登録免許税の軽減を受けるために住民票を移転させ、その住民票を使ったという意味です。後に裁判で明らかになりましたが、なんと検察は、登録免許税の申請用紙を詐取したのが罪になるという主張をしてきたのでした。役所に行けば誰でももらえる用紙をもらったことが、罪というのです。
これだけでも、口封じをするがために逮捕したということがはっきりわかります。
そんな罪で逮捕したのですから、取調べといっても、聞くことがありません。
私も現職検事ですから、取調べがどんなものかわかります。通常、朝8時か9時から昼休みを挟んで午後9時、10時まで調べます。それが、なぜか私の場合、夜7時に取調べがはじまります。そして、1時間から1時間半で終わってしまう。
証拠書類は、神戸のマンションの不動産売買契約書3通だけ。大阪地検特捜部が容疑者を逮捕するには、非常に情けない証拠である。
また、ほとんど他の容疑者との供述のすり合わせ、記憶喚起など取調べの基本となる作業もなかった。
この頃、私の知らないところでは、再逮捕容疑でとんでもない"爆弾"が飛び出すとささやかれていたそうである。
5月10日に私は再逮捕された。容疑は収賄。つまり、接待を受け検事として職務を利用して便宜を図ったというのだ。同じく、贈賄容疑で逮捕されたのは、渡真利忠光。私が競売で落札した神戸市内のマンションには、当時、暴力団組長の亀谷直人が入居しており、居座られ退去に応じてもらえず困っていた。
その代理人として交渉に出てきたのが、渡真利だった。
この頃、私が知らない塀の向こうでは、私に関する凄まじい報道合戦が繰り広げられていたという。
「現職検事・女性接待を要求」
「暴力団に、飲食をせがむ」
「競売専門・財テク検事」
「三井不動産と呼ばれる」
などいう見出しが躍っていたのであった。
渡真利には、何度か飲食の接待を受けた。
「金利の代わりにおごらせてもらう」
と渡真利が言ったので、何度かごちそうになった。
現在まで渡真利が200万円の借金のうち、私に返済したのは86万円。まだ、114万円も残っている。
女性の接待は、渡真利と食事をともにしたときに、大阪市内のホテルに連れて行かれた。しかし、酩酊状態で私は女性と部屋に入ったらしいが何もできずに30分ほどで外に出た。二度目は、平成12年7月19日という。しかし、この日は私はずっと大阪高検におり接待を受けた事実はない。検察はまったくない事実をでっちあげまでして、私を罪を作ったのである。
それゆえ、水沼検事はいろいろと聞いてきたが、私の記憶と合致しないことやとんちんかんな質問が多かった。でっちあげられた罪だったからだ。何を聞かれても、まともに答えることもなく、供述調書にサインすることもなかった。
よく法廷で、検事にはきっちりと話したのに、供述調書の内容が違うというやりとりが刑事事件で見られる。これは、検察の筋書きで供述調書が作成されたからである。いくら、検事に話していると言っても、どうにもならない。
そうして、私の取調べは終わり、大阪拘置所での生活となったのだ。
>>325日過ごした拘置所
長い、長い拘置所生活
大阪拘置所では最初、5舎4階 号という部屋を割り当てられて。いわゆる自殺防止の部屋で、常に天井にモニターがあり監視カメラで見張られている。
首吊り自殺をしないようにと、部屋には服をかけるフックもなく、水道の蛇口も。
机も頭を打ち付けて自殺することがないようにと、段ボール箱。仕方がないから、トイレの木のふたの上で書き物をした。今年5月に出版した「告発!検察裏ガネ作り」は、くさいトイレのにおいと格闘しながら、拘置所で書いた「獄中記」がベースとなっている。
>>拘置所で書いた手記
接見禁止として、弁護士以外と面会できず、新聞や雑誌も読めない。
時計がないので、何時であるかよくわからない。鉄格子から差すわずかな日差しとその影でおおよそ何時ごろか、見当をつけていた。大阪拘置所は大阪市都島区にあり、近くには高層マンションが林立する。前には淀川から別れた大川が流れ、春は桜の名所、夏は天神祭りの舞台としてにぎわう。私が拘置されている間も、天神祭りの日には大きな花火や歓声が聞こえた。それ以外の日は工事のシャベルカーや子供の声がして、夜にはマンションの明かりが灯るのがうらやましかった。カレンダーはあったが、5月30日で取り調べは終了。朝起きて何もすることがなく、一日が終わるという単調な日々。何月何日、曜日もよくわからない。拘置200日目くらいで、自殺防止の部屋から一般の部屋に移された。ここでは、ちゃんとした机がありそのうえで書き物や本が読めた助かった。ちょうど、接見禁止も解除され、家族や支援してくれる人々も面会に来てくれ、本も差し入れられた。少しではあるが外部の情報とも接することができ、感激したものだ。だが、反対に自分のことが逮捕された時に、いかにひどく報道されていたかを知って、驚愕。マスコミにも怒りがわいてきた。
私は鹿児島地検時代に交通事故にあって、半年間入院生活を送った。
その事故の輸血が原因で、肝臓を悪くしていていた。その後、インターフェロンという特効薬が開発され服用したところ、肝臓は完治。しかし、今度は糖尿病を患う羽目になった。拘置所では血糖値が300を越すこともあり、食事は病人食。3個までと決められていた血糖値を抑える薬。飲んでも血糖値が下がらないため、4個と数を増やしたこともあった。
「検察は拘置中に私が死んだら、裁判でも弁明の機会を与えられず、調査活動費の問題がうやむやになる。検察は私を殺そうと、保釈を許可しないのではないか。本当の狙いは、私の獄中死はないか」
と悪い体調の中で、思った。
「そんな検察の筋書きには絶対に屈しない」
と歯を食いしばり、かんばしくない体調に耐えた。
そうして、迎えた正月。ラジオからは新年を告げる琴の音色。食事には雑煮や紅白のかまぼこ。凍えるような寒さも幾分和らいだ。
楽しみは、弁護士や家族、支援者の接見だ。いつも、接見場所は11号室と決まっていた。ここには、ビニールで覆われていたがカメラとマイクが仕込まれていた。おそらく、ビデオで撮影していたのだろう。人権侵害もはなはだしい。
そして、読書。差し入れられた本を、1ページずつ懇切、丁寧に読む。
ついに訪れた、保釈の日。平成15年3月12日でした。この日は、弁護士からまず保釈は間違いないと聞いていました。しかし、午前中には刑務官からの連絡はありません。昼前に、幾度も私に面会に来てくれた、関西の二人の記者が来てくれ「外で多くのマスコミが待っている」「今日は大丈夫そうですよ」と励ましてくれた。
そして、やっと刑務官から荷物を整理するように告げられたのが午後1時過ぎ。
本や裁判資料、書きつづったノートなどが段ボール箱に5つほどあった。長く住み慣れたというとおかしいが、この部屋を出るのはなんとなく名残惜しい気もするがいち早く、外の空気が吸いたい。その時、ずっと私の担当だった刑務官と目が合った。どちらからともなく、手を差し出しがっちりと握手を交わした。その目で、彼の心がよくわかった。彼はなぜ私はこんなに長く拘置所に留め置かれたのか知っているように感じた。
外では、本当に多くのカメラマンにもみくちゃにされ、車にも乗れない。
やっと、車に乗って自宅に帰った。それは、事件の舞台になった神戸市内のマンション。家に帰って、風呂に入ると家族と話す間のなく睡魔に襲われた。
>>やっと保釈!
